翌朝、事務所に来るといずみと鈴木は部屋のソファーに座って話をしていました。
「鈴木さん、どうだった？山下君といいコミュニケーションはとれたかな？」
「就寝時間まで鈴木さんは山下さんとお話をしていたそうです」
「初めは病気の話ばかりだったんです。先生に立派な癌患者になれって言われたことを話していました。次は司法試験のことで、この話も先生に立派な浪人になれって言われたと言っていました。わたしが知らなかった学生時代の話もしてくれました。山下さんの話ばかりで私はただ聞いているばかりでした」
「それでいいのよ。大切なのは山下さんの言うことを聞くことよ。耳を傾けることによって、山下さんがどう考え、感じ，何をしたいのかが、しだいによくわかってくるはずよ」
「今日もお見舞いに行ってあげようと思います。でも、会話がなくなるのが心配で・・・・・」
「山下さんに対して何か手助けができないかと申し出るのは貴重なことよ。何かわたしにできることない？って聞いてあげることは、愛情の表現以外の何物でもないの。買い物、行ってきてあげようか？でも、飲み物、買ってこようか？でも、なんだか元気がないわね。わたしに話してみたら？でも、なんでもかまいません。助けになってあげるには、さまざまな方法があるものよ。山下さんにかわって何かをしてあげたり、話を聞いてあげるほかに、優しい言葉をかけてあげるのもそのひとつよ。一つひとつの行為はとるに足らない小さなことでも、それを申し出ることによって、山下さんを気にかけている気持ちが少しでも伝われば、返事がイエスかノーかは重要なことではないのよ。これは、ふたりの結びつきの強さを再確認するための行為なの。」
「身体が痒い、痒いといっているの。そんなときわたしがかいてあげてもいいのかしら」
「わたしたちは赤ん坊のとき、親に抱かれたりして身体が触れ合うことによって、愛されていることを実感するでしょ。母親のあたたかい胸や、父親の力強い腕に抱かれたとき、その皮膚感覚から安心感を得て、それによって愛情を学ぶでしょ。一般的に、両親からそのようなスキンシップを十分にそそがれて育った人は、大人になってからも精神的に安定しているため、好きな人ができたときは、自分が受けたのと同じような愛情を相手にそそぎたいという欲求が生まれるものよ。人間はみな、肉体が喜びに満ちているときには、感情もポジティブで精神も高揚しているでしょ。それゆえ、愛する人が惜しみなく身体を与えてくれたとき、愛されていることを強く感じることができるものよ。ですから、愛する人と愛し合うときには、お互いに肉体的にも十分与え合うことにとまどうべきではないの。相手が疲れていたら、足や背中を指圧したりマッサージしてあげる。身体が痒かったら、かいてあげる。濡れたタオルで身体をふいてあげる。こうしたことも、すべて身体が触れ合うことによって示される愛情表現なのよ。ふたりで話しているとき山下さんの腕や手に触れる、という具合に、特に理由がなくても何気ないしぐさで山下さんの身体に触れたりして、ひんぱんに皮膚の接触をぜひこころみてね。そしていずれ愛し合うときには、身体で会話することも忘れないように。鈴木さんの身体は、言葉にできないほどたくさんのことを語り、愛情を与えることができるのですから」
「痒かったらかいてあげるわね。それに濡れたタオルで身体もふいてあげるわね。なんだか、より身近に感じてきました。ありがとう、いずみさん。先生、今日、早めにお仕事あがってもよろしいですか。病院の夕食前に行ってあげたいんです」
「そうしてあげて。退院するまで早めに仕事をあがってもいいからね。山下のそばについていてあげて」
いうまでもないことですが、真実の愛は、信頼のうえに築かれています。そして、この信頼はふたりが一緒に築くものであり、相手から裏切られることがないという心の平和と安定をお互いにもたらす基礎となるものです。
続く