箱根に行く車の中で考えました。人はなぜ恋に落ちるのか?
ある文献によると、恋愛感情とはドーパミンといった脳内ホルモンが多量に分泌されることで発生する感情だという。
ドーパミンは強力な快楽物質で、たとえば「ランナーズ・ハイ」状態というのはジョギングしているうちにドーパミンが脳内に分泌されることによって起こる高揚感だという。一度これにハマると、ジョギング中毒になってしまうのだ。
恋愛も同じで、ドーパミンという快楽物質を得られるからこそ人間は恋愛に夢中になるわけだ。
ドーパミンが多量に分泌されると、人間は爽快な気分を味わうことになる。気力が満ち溢れたり、活動的になったり、時には不眠になったり、食欲がなくなったり、心臓がバクバクしたり、息が荒くなったり、不安になったり・・・・といった「恋の気分」は全部ドーパミンの作用だという。
ドーパミンが関与しているとすれば、恋の虜になった男女が、その恋愛関係なしには生きていけないと感じたり、相手にも同じ気持ちでいてほしいと切望することにも説明がつけられるかもしれない。なにかを切望してやまない、これは中毒の症状なのだろうか。そしておもな中毒症状はどれも、ドーパミン分泌量の上昇と関係しているらしい。恋愛ははたして一種の中毒なのだろうか?
恋愛とは、中毒である・・・・これが、生物学的な見地から見た実相だという。
キリスト教や仏教は人間の欲望を全て苦悩の源泉であるとして抑制する方法を教えてきた。もちろん恋愛なんてもってのほかだ。近代は恋愛を自由化して物語どころか現実の世界でも恋愛を解禁したが、その結果人々は恋愛中毒に陥ってしまったとでもいうのだろうか。
別に、本気で愛し合っているわけではなく、なんだかよくわからないけれど中毒症状になって離れられないだけだとしたら、私の恋愛をどう説明したらよいのだろうか。
恋愛と性欲は、別々の脳内ホルモンの働きから生まれる感情らしいが、完全に分離しているわけではないらしい。人間は恋愛対象に出会うとまず脳内にドーパミンが分泌されて恋に落ち、次にテストステロンが分泌されてセックスしたくなるらしい。
『源氏物語』の光源氏はせっかく紫の上という理想の女性に出会っていながら、、ドーパミン中毒症状を起こして女を漁り続け、紫の上に見放されて失意の晩年を過ごさなければならなくなった。
人間は性によって自分がいかに最低の存在であるかを知ることもあるし、性によって至高の状態を味わうこともできる。そして、それは身体のことであるとともに優れて精神のことでもある。これほどの広さと深さをもったことを、言語によって説明しきることはおそらく不可能であろう。
こんなことを考えながら箱根湯本に着きました。
パン屋に入るとユジンは奥でパンを焼いていました。店にはユジン一人でした。私はユジンに声をかけました。
「ジュンサン、来てくれたのね。もう、わたし一人で切り盛りしているのよ。わからないことがあると電話でご主人に聞いたりしてなんとかやっています」
「ユジンの保証人の契約に来たんだ。それと家賃を支払いに」
「保証人なんか要らないみたい。自由に使ってって言われました。ジュンサン、今焼けたばかりのメロンパン食べてみて」
私はメロンパンを食べて、これなら売り物になると思いました。
「忙しいの?お客さん来てくれてる?」
「午前中はすごく忙しかったのよ。お店に並べたパンがなくなるほど。わたしの創作パンも売れたのよ」
「順調に繁盛してくれればいいね。ユジン、家賃のお金おいて今日はもう帰るね」
「ごめんなさい、ジュンサン。月曜日が定休日なの。でも初めは休みなしで頑張ろうと思うの」
「また、ゆっくり来るね」
「ジュンサン、パン持っていつて。今、袋に入れるから」
パンをたくさんもらってパン屋さんを出て東京に向かいました。
続く