会長の通夜は築地の本願寺で午後の六時からでした。私といずみは五時半に事務所を出ました。
私たちは記帳し、焼香をし会長のご冥福を祈り葬儀場を後にしました。
「米寿を祝う会ではお元気だったのに、最後はあっけなくお亡くなりになってしまいましたね」帰りの車の中でいずみが突然の訃報に驚いたように言いました。
「あの時、膵臓がんで余命半年だと言っていたね。でも最後は肺炎で亡くなったらしいよ」
「ご自分の死期が迫っていることを悟ってたいたんですね」
「宇宙の気の遠くなるような時間の中で、人間が人間として生きる時間はごく短いものだ。そして死んだ後は無限に新しい世界の中に魂が飛び出していく。死はほんの一瞬通り抜けるだけだから怖いことではないと、とおっしゃっていた。どんな人間も最後は死ぬ。それが自然の摂理なんだよ。現代人がどんなに科学を礼賛し、その発達にしのぎを削ってきても、一番未解決の問題として残さざるをえなかったのは、人間は死ぬ存在である、ということだった。これだけは科学で解決することはできなかったんだ。」
「それでもわたしたちは死をどう受けとめればよいのですか?」
「否定をせずに、目もそらしもしないで、死を肯定的に受けとめることだろうな。どんなことをしても死を否定することはできないんだもの。死に対して正面から向き合えば、もしかしたら会長のように心の平安が訪れるかもしれない。平安だったかどうか最後にお会いしていないからわからないけどね。死をすべての消滅と考えずに,広い世界に飛び立つことだととらえれば、死に対する恐怖にがんじがらめになることもないだろうな。先に死んでゆく者も,後から死んでゆく者も、いずれまた再会できると考えた方が心は安らいでくれるよね。すべて現実主義で考えることがよいとはかぎらないいんだもの」
「死について考えれば考えるほど怖くなります。死の恐怖とは忘れることで解決できるものではありませんよね」
「死の恐怖から目をそむけず、もっと正面から見つめてみることは人間として大切なことだと思うよ。私たちは死に対して歯向かうことは絶対にできない。死は確実に訪れる。経済が発展して昔に比べると生活は格段に向上したろ。医療の進歩で病死者の数は減少し、日本は世界でも例をみないほど高齢化社会を迎えつつある。不景気とはいえ以前に比べたらまだ裕福で満たされている現代こそ、自分がここに存在する意味について考えてみるのもいいんじゃないだろうか」
「今の若い人たちはどこまで死への恐怖を抱いているのでしょうか?少ないんじゃないかしら」
「昔は人は家で生まれて家で死んでいったろう。今は病院で生まれて病院で死んでいく。死や生が身近にないんだ。だから、死について、生命について考えることは少なくなって.しまっているんだよ」
「先生、お腹すきません?何か食べて行きましょうよ。家の冷蔵庫の中、たまごだけなんです。今度またカレー作りますから食べに来てくださいね!」
私たちはファミリーレストランに入って食事して帰りました。
続く